俺は今、落ちている。
背中や太股、顔の後ろから感じる風が、前へと高速で吹いているからだ。髪の毛 も浮いている。手を伸ばしてばたつかせても何にも触れない。ただ、きっと落ち ていることだけは確かだ。俺は大の字になって、その長い穴のなかを落ちている。


どうやってこの穴に落ちたのか、それを思い出そうとしても無理だった。どのく らい長い時間ここを落ちているのかさえ定かでは無い。もしかしたらついさっき かもしれないし、もうずっと前かもしれない。眠ったのかもしれないし、神経を 研ぎ澄ましていたかもしれない。とにかく、俺は落ちている。それだけしか解ら ない。恐怖もなくなった。底に着いたとき、俺がどうなるかは解らない。死かも しれない。でも今はそれすら愛しい気がする。俺は落ちているのだ。周りが暗い ので、入口も出口も自分も他人も見えない。ただ、落ちている。なにも考えられ なくなってくる。でも俺は無理やりいろんなことを考えようとする。


ここで落ちているということ。なにも見えない暗闇だということ。時間もわから ないこと。それはまるで、恐怖なはずで、有り得なくて、忘れていくことだ。自 分が落ちて行くときはきっと、他人も忘れ空間も忘れ色も忘れ音も忘れ、遂には 自分も忘れる。寂しさを忘れ恥を忘れきっと最後に優しさを忘れる。俺はもう、 優しさを忘れただろうか。生を忘れ死を忘れ、最後に見るのはなんだろう。ただ 落ちているということ。それだけだ。


俺の指先がなにかに触れた。このただ落ちていくだけの俺の指先に、なにかが触 れた。何もなかった筈のこの場所に、俺に、なにかが触れた。その変化は絶大で 、俺はそれをぎゅっと握り締めた。なにもない、落下するだけの空間になにかが あった。それがなんでも良かった。変化がただ嬉しくて、俺は落ちているのだと いうことを一瞬忘れた。


それは優しさだった。落ちていることを忘れた。完全に。確実に。頭の中から指の先まで、綺麗さっぱり消えた。 光だった。指先がじんじんする。でもその光が眩しくて、すこし恐怖を感じた。その瞬間に、意識を取り戻すようにして、思い出した。
俺は、落ちている。









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