髪の毛をぐちゃぐちゃにする。あたしが好きなこと。体のラインをなぞる。彼が好きなこと。


あくびが出る。いつもそう。あたしが起きるころにはもう居ない。尚人さんは結構やり手のサラリーマン。海外にも手を伸ばしている企業に勤めている、と言っていた気がする。尚人さんは指がすこし太い。髭はこまめに剃るほう。眼鏡ではなくコンタクトを付けているけれど、コンタクトがほんとうは目に悪いことをよく知っている。なのにコンタクトなのは何故だろう。今度訊いてみよう。


あたしは尚人さんのマンションに住んでいる。ここが尚人さんの本当に住んでいるところではないけれど。尚人さんには奥さんとお子さんがいる。きっときれいな奥さんで、かわいいお子さんだろう。別に負け惜しみでも綺麗事でもない。ただ尚人さんはルックスを一般人よりすこし気にするほうだから。そもそも、一般人てのがよく解らないけれど、あたしが今まで出会った人よりも、という意味で。今まで出会った奴がそろって全然気にしなかったのか、それとも重視していたのかは判断しかねるけれど。


あたしは気紛れに起きる。大抵昼近く。尚人さんは机の上に今日のあたしの星座の運勢を書いたメモと、朝食を置いていく。尚人さんは意外に料理上手らしい。結婚してるのに。今日のあたしの運勢はふつう。衝動買いをしそうだって。ラッキーアイテムは観葉植物。…どうしろってのよ。植物園にでも行こうかな。その観葉植物を衝動買いする人が出そう。朝のニュース番組の星座占いってほんとうに無責任。未来が見えるなら大地震がいつ来るかを予測したほうがいいんじゃないかと、あたしは思う。でも人間っていうのは自分のことが一等好きだから。あたしも含めてね。ナルシスティックなのではなくて。どうせ精神と身体は切り離せないのだし。


その日の夜は1人だった。たぶん今度尚人さんが来るとしたら明後日かその次だ。週に二、三度しか来てくれないし。これでもいいほうなのかな。やっぱり標準がよく解らない。




「麻紀の身体は肉がいいよね」
「…なにそれ、っ」
「良いか?」


あたしは首を縦に振る。そろそろこの家からも独り立ちしなくてはならないかもしれない。頭が真っ白になる瞬間に思ったのは、そんなことだった。尚人さんは横に倒れる。


あたしは多分尚人さんのことが好き。そして尚人さんは絶対あたしのことが好き。でもあたしには尚人さんを独り占めすることはできない。はしたないおねだりなんかしたら、すごく醜悪で、惨めになる。尚人さんはあたしを嫌いになる。でもきっと捨てはしない。あたしが仕方なく出て行くのを待つんだ。いやらしく。ここで死にたくはないし。最後まで醜い姿を晒したくない。だからあたしはそんな惨めな気持ちにならないように、そろそろ尚人さんに開放される。されたい。だからあたしは出て行く。嫌いじゃない。すごく快適な住家だった。尚人さんもやさしかった。お母さんのようだった。だから不倫なんてしたんだ。あたしはきっとお母さんが好きなんだ。



その日の朝も、なにも変わらず訪れた。尚人さんの痕跡は一切ない。この切なさ。この寂しさ。尚人さんなんてここに居なかったよう。始めから、なにもかも幻だったのかもしれない。あたしは荷物をまとめた。紙袋ひとつだけで、あたしはすこしがっかりした。


それからあたしは朝ご飯をゆっくりと食べた。部屋を見回すと、あたしの痕跡も一切なくなっていた。あたしはちいさな紙に「ありがとう」と今日の牡羊座の運勢を書いた。尚人さんは春生まれだ。春のようなほのぼのしたひと。


尚人さんの残したメモによると、あたしの今日の運勢は最高。
旅立つのにはちょうどいい。









(083006.)