新作の花火は今夜、夜空に散るという。


つまり僕はそれを見にここに来たはずなのに、気付けばここはどこだ?彼はその 薄暗い場所を眺めながら考える。広い空間のようで、でも手を伸ばせば壁に触れ られる気もする。ああ、そうか、ここは伸縮してるのか、と彼は妙に納得してい た。




まわりは鏡ばかりで、鏡のなかでは鏡の連鎖が続いている。止まることのないそ の鎖。彼はそれを覗きこむ。彼の顔と後頭部が映る。永遠の連鎖。否、永遠では ないのだろう、と彼は勇敢に考える。永遠にあるのは過去だけで、でも過去は存 在しているともいえないから、つまり永遠なものは無い。彼はそう思っている。 ここはどこなのだろう。彼は自分の胸に尋ねる。手を伸ばすと一瞬ひやりとした 感覚を受けたが、すぐにそれも消えた。この部屋は伸縮している。最初の予想の とおりだ、と彼は思った。




目を凝らしてみると、目の前に兎が二本足で立っていた。タキシードのような服 を着、帽子までかぶって、時計を片手に格好付けている。彼はその急がない兎の そばに寄った。




「君は誰?」
「何故そんなことを訊くんです?さあ、あなたにとって私は神かも知れませんよ」
「おまえは兎だ、ただの」
「ではそれでいいではありませんか」




なんて腹立たしい兎だろう!彼は眉間に皺を寄せ、不快感を露わにしたが、兎は 気付かぬ素振りで時計を一瞥し、彼に向かって笑ってみせた。彼の機嫌は急激な 角度で斜めになった。何故笑っているのだろう。僕を嘲笑っているのか?ますま すのストレスを腹の底に沈澱させつつ、彼は訊く。




「ここはどこだ?」
「ここはここです」
「ふざけるなよ!ここは何という場所か訊いてるんだ」
「失礼ながら、そんなこと、知ってどうなるというのです?名前がわかれば帰られるとでも?いやはや、それ以前に、あなたは帰りたいんですか?」
「帰りたいさ!今すぐこの忌々しい兎を目にしなくてもいい場所へね!」
「そうですか。ですが、名前などありませんし、帰る道さえないでしょう」




彼は困惑した。同時に憤慨もした。帰る道が無いのならば、何故僕はここへ来た んだろう。どうやって?そもそも、僕はただ花火を見に河原へ向かっていたはず だ。彼は考える。だが、最早彼にそのときの記憶は無い。




彼は一瞬にして理解した。ここへ来るときの記憶が無ければ、帰り道もわからな い。つまり、ここへ来る者はここへ来るときの記憶を失うのか。なんて完璧な監 禁!彼はもう半ば正気を失い始めていた。兎はまたも時計を一瞥した。




彼はまわりに目を凝らした。すると、彼は一人の人間らしき物を発見した。助か った、兎よりはましな話し相手になるかもしれない。彼は走った。




彼は愕然とした。彼と同時に、彼もまた愕然とした。彼は彼だった。彼もまた、 彼であった。彼は彼を鏡のなかのものかと思った。だが、彼は彼とは違って、頭 を掻いた。彼は彼とは違う彼がいることにまたしてもひどく驚いた。




「おまえは、誰だ」
「おまえこそ、誰だ」
「おまえは僕の敵だな」
「おまえは僕の敵なのか」




最早彼には彼がなにを言っているかわからなかった。何故なら、彼は自分がなに を聞いたのかわからなかったからだ。そしてなにを言ったのかも。正確にいえば 、どっちを自分が言い、どっちを相手が言ったのかがわからなくなったのだ。彼 と彼が混同し始めていた。彼も彼も、そのことにはまるで気付かないようだった 。




新しい彼は刀を手にしていた。花火の彼はナイフを手にしていた。ふたりはじり じりとにじみ寄り、ついに殺し合いを始めた。伸縮する鏡の世界で、お互いを混 同させながら。頬をやられた、と思ったら足を切られて、今度は手をやった、と 思ったら額をやっていた。




兎はその様子をつまらなそうに眺めつつ、また時計を一瞥した。




彼(もしくは彼)は、壁にぶつかり、すぐに離れ、ふらふらになり、跪いてしまっ た。それをチャンスだと思った彼は、彼に飛び掛かっていった。が、刀(またはナ イフ)は彼の頬の横をかすめただけだった。彼は目を見開く。どうしてこんなこと になった?どうしたって僕は、こんな辺鄙なところで殺し合いをしているんだ?
彼、もしくは僕と?




彼がそんなことを一瞬考えたので、隙ができた。彼はそれを見逃さず、彼は彼の 胸を刺した。彼は血を吐いて倒れこみ、床の上でのた打ち回っていた。




彼は顔を見上げた。兎は彼を見下した。すると今度は、兎のとなりに誰かいた。彼 はまた彼かと思い、敵意をむきだしにした。だがそれは彼でも彼でもなく、金色 のきれいな髪をもった女の子だった。青色のワンピースを着ている。彼はその子 が彼でなかったことに、軽く安堵の溜め息をついた。




「まあ、なんて無意味な殺し合い」
「無意味?なぜ?敵を倒したのに?」
「敵なもんですか。あなた、ここがどんな場所か、よく御存じでないようね」
「ここは名前が無いと聞いた」
「名前なんて、関係ないわ」




彼が女の子に憤慨しかけた、そのときだった。
彼は倒れた。口から血を噴き、床をのた打ち回った。胸にはナイフが、左手には 刀が握られていた。彼は理解できなかった。なので、目の前にいる少女を睨みつ けた。いつ僕は刺されたんだ?なんで刀とナイフを持ってるんだ?




「まだ気付かないのかしら」
「頭が固い人がするような質問ばかりされましたから」
「そう。だから殺し合いなんてしたのね」






少女と兎は、軽蔑した目で彼を見た。彼の視界がぼやけていく。
そう、彼が殺したのは彼だったのだ。彼と彼は、混同していた。彼は彼であり、また彼は彼であ った。彼と彼は殺し合った。自分の右手と左手で。勝者も敗者も彼だった。だが 命はひとつしかない。彼は彼を、殺してしまった。




彼は自殺したのであり、殺されたのだ。この伸縮する鏡の世界で。
彼は永遠に、そのことを理解することができなかった。









(080206.)